写真の話を始めると、このところ毎回と言っていい程「覚悟」という言葉が出てくる。私は写真を撮る側ではないにしろ、残されてゆく作品の中に参加しているので、自分の中にも同等の覚悟があって、それを殊更口にした事はこれほどまで頻繁には無かった。
ここ一年ほど、私自身を含めあらゆる関係・環境が急激に変化して(いや、今まで気付かなかった事に急に気付いたということなのかもしれないが)、あらゆる側面から「当たり前」としてきた事を見直す時間が多かった。この感覚は、「どうして、どうやって私は呼吸をしているんだろう?」といったものに近く、「当たり前」というより以上に、意識もせずやり過ごしてきた事を意識しなおさざるを得ないものだった。
そこには、息苦しさからくるもの、他者からの投げかけによるもの、自身で感じた隔たりや懐疑などがあると思う。息が苦しいから、改めてどうやって呼吸をするのか問うてみたり、他者から「どうして?」と聞かれてそれに答えようとする時初めて、答えを持ち合わせていない事に気付いたり(答える必要を見出せないといったのも含む)、一見多くの人々が納得しているような事に承服しかねたまま身動きが取れなくなってしまったり、と、こんな具合だ。
先に例を出したように、呼吸するといったようなレベルの事に疑問を持ち始めるのは、決して心地の良いものではない。医学書あたりをひっくり返して、呼吸のシステムを理論的に納得すれば解決という訳にもいかないから、ここが私自身の性分の厄介さだとつくづく思う。何故今まで意識すらしなかった事を今になって意識してしまうのか?と問い直してしまうからだ。
今回のこのタイトル、昨年の夏に違う場所で綴った事がある。おおよそ一年近く経ってもまだ未だに同じ言葉を出してきて語ってるあたりに多少の不毛さを感じなくはない。でももう一度「写真的事象」「写真的な出来事」の根っこを言葉にするなら、覚悟と潔さ以外のものが見つからない。
撮影する側も、被写体の側も、「そこに存在していたというただそれだけの事実の重み」をその場でどのぐらいの重みなのか、予測も出来ないのが写真作品のあり方だと思うから、覚悟が無いなら撮るな、撮られるな。とキッパリ言ってしまう。
デジタルの存在を今更どうこう言いたいんじゃないが、全く関係ないとは言わない。全く以て便利なもので、私も日々使っている。編集も簡単で、切ったり貼ったり、消したり描いたり、足したり引いたり……。同じものをほぼ無限に量産できる点も含めて、デジタルはそういった媒体なのだと納得している。一時期白熱していた「デジタル or アナログ」論も同じ写真として捉えるのではなくて、全くの別物というあたりで落ち着いたと思ったんだが、感覚というのは知らない間に浸食されているもので、全ての画像媒体に、その便利さを持ち込むのが当たり前になってしまっているから、寝た子を起こす事になる。
私に限って言えば、私の参加した作品に、「ここのシワが嫌だから消して」だの「もう少し胸を大きくして」だの言ったら、モデルが私でなくても良いとなってしまうし、もし私自身がそれを望んだら、それこそ終わる時だと思っている。ネガが残り、一瞬がそこに残されるというのは、修正の効くものであってはいけないと思うし、後戻り・やり直しのきかないのがそもそもの写真だと思っている。昔のドラマや映画なんかで(勿論、現実にも)よくあった脅迫手段にネガの行方が使われたのも、その取り返しのつかない事実という重みがあったからだろう。
女性の心情として、「綺麗な・美しい姿を残したい」という気持ちは痛いぐらいによく分かる。そしてそういった需要に応える商業もある。アナログの時代から修正というのはあったし、成人式・結婚式などの記念写真では、ヘアさんやメイクさんが参加するっていうのも別段新しい事ではなくて、化粧師なる人が昔から居て、その技術によって「いつもとは違う自分」になれた。語弊を恐れず書けば、肌の質を誤魔化すための照明の当て方やレンズの種類選びだってあった。デジタルがここまで来る前は、商業写真と作品写真がそういったところで分けられていたと思う(撮られる側、もしくは依頼する側のニーズに沿って撮る写真と、撮る側の意図に沿って撮る写真と言えば良いか)。商業写真、つまり依頼する側のニーズに応えるにはデジタルはものすごく便利で、効率も良いし、今となっては修正という言葉では追いつかない程にまで本体を跡形もなく変えてしまえる技術まである。それはそれで良い。 けれども!分けられて然るべきと思う領域がこのところとことん崩されてしまっているから、こんないらん長文をウダウダ書いている(苦笑)。
作品として出来上がって来た写真をモデルが気に入らないからと言って、簡単に消去や編集(修正)を要求してきたりというのを耳にする度、「じゃあ、どうして参加したんだ?」というところへ思考が戻ってしまう。そういった類のモデルからの要望を差し挟めるならば、それは撮影料を支払った時に得られる対価としてのはずで、ならばそれは商業写真としたくなる。上で既に言ったけれども、それらはあって当然で、心情の理解もできる。作品としての写真に参加したのなら、そこで既に全て了承済み、つまりは作品としての何らかに意見・意思を差し挟めたとしても、出来上がったものに対してはそれがその結果なのだと受ける潔さ、もう変えられないという覚悟、これがなくては絶対に超えられない地点があると信じている。
奢りでも自慢でもない、私は今まで自分が参加した作品が全て好きだ。格好の悪いものもある、嘆きたいような瞬間のものもある。だけれども逆に、自分では気づきもしなかったところに息を飲むような迫力があったり、自分で嫌いだと思っていた自身のある部分が意外にそうではなかったなんて事もある。そこに残った全てが、否応なく自分なのだと、それで私なのだと。だから一枚も消したいと思った事はないし、変形(修正)させたいとも思わない。10年先を見る時、カメラの前に立つ自分が今より劣っている、衰えているとは思わない、時間の経過は正しく私の上に訪れて、私の下から離れてゆく、それが作品の中に残るというのは、人生の中で、何より光栄で貴重な事だと思うからだ。
私がヨーシロー氏との写真を「ライフ・ワーク」と呼ぶのは、もっとも自然で当たり前の事「生きてゆく事」と等価だからだ。生半可でやっていけないし、やってきたつもりもない。
モデルとしての覚悟と潔さは、綺麗さや美しさなんていうちっぽけなもんの中にあるとも思わない。生きるのは無様なものなのだ、だから諦められない。それがカメラの前に立つ時の覚悟と、作品への潔さになっていると自負している。
何者かになりたいと思っている。でもそこに自分が不在なら、何者にもなれやしない。それは何も写真に限ったことではなく、生きてくこと、生きてることがそういったもの。私にとってはそうでありたい。